二畳半生活

ぼんやりとした概念を具体化する作業途中です

『実践!交渉学 いかに合意形成を図るか』読書メモ

防備録メモシリーズです。

行動経済学本の連続から趣向をかえて、交渉学の本を読んでみました。

実は交渉学本の前に話題のダニエル・カーネマンさん著『ファスト&スロー』も読んだのですが、

こちらの本は丁寧に各章末の後ろにまとめがついているので内容まとめなくてもいいんじゃないかと思ったのと、ページ数以上に内容が濃いため、まだ文書にできるほど整理ができていないのでまた今度書きます。

2、3回読み直した方が良い印象であった。

 

話が戻って松浦正浩さん著の『実践!交渉学』の感想です。

○この本を読んだきっかけ。

実はこの本昨年の今頃買いました。かったきっかけは仕事です。

当時仕事で、社内の人に頼み事をすることが多くかったのですが、頼み方が下手なのか期限までに成果物をいただくことが出来ませんでした。もっと上手に依頼出来ないかと考えた結果この本を買いました。

とはいえ、買った当初は内容が身に入らず今まで積ん読していたのですが、仕事内容が変わって落ち着いた今あらためて読んだら面白かったです。

○興味ぶかかったないよう内容

・交渉≠コミュニケーション

交渉は当事者同士の利害調整を指すのに対し、コミュニケーションは交渉に限らず情報伝達が目的です。コミュニケーションも交渉の一部ではあるのですが、それだけが交渉ではないということです。

BATNAとZOPA

BATNAとは次善の策です。ある交渉をするときに事前にその代替案を調べ、BATNAを見つけることで、合意形成が交渉の目的化することを防げ、かつ交渉の際に余裕が生まれます。

ZOPAとは合意可能領域です。ある交渉において、自分側のBATNAより条件が良い状態かつ相手側のBATNAよりも条件が良い状態の幅をさします。

ZOPAが大きいほど、合意形成の際に自分の利益を増やせる可能性がでます。反対にZOPAがない場合は、その交渉はするべきではありません。万が一お互い譲歩の上合意したとしても、お互い利益を得ることがないためです。

ただし、一つの条件ではZOPAがなくとも別の価値を交渉に持ち出すことで、お互い利益を得ることは可能です。(商品の値段を割り引くかわりに発注量を倍にするなど)相手と合意を形成したい場合は、相手が何に最も価値をおいているのか知る必要があります。

 

そのほか後半では利害関係者が多くなる社会的合意形成についても記してありました。

 

○きっかけに戻って

本を読んであらためて考えると、昨年度社内で仕事を依頼する際にうまい頼み方はないのかと悩んでいた問題への回答は、当方(3日後にやってほしい)と依頼相手(より優先度が高い仕事があるので5日はかかる)にZOPAがなかったためうまく行かなかったのだなぁと諦めがつきました。今度は気合で乗り切るエナドリのようなコミュニケーション系交渉術の本も読んでみたいと思います。

 

 

『ずる 嘘とごまかしの行動経済学』読書メモ

 大型台風が過ぎ去ったら夏の暑さも落ち着いてまいりました。前回の記事で月1の更新を目指すと書きましたが、有言不実行になってしまいました。残念。

 

行動経済学の本3冊目を読んだので読書メモです。他のアリエリーさんの本とかぶる内容もあったため、気になった内容のみ抜粋しています。

 

○創造性と不正

人の特徴として創造的と聞くと、長所として捉えられる。けれど、創造的な人ほど不正を起こしやすいことが実験結果からわかったそうです。創造的な人ほど規則をやぶる言い訳をつくるのがたやすい、また自分のつくった言い訳に納得しやすい傾向があると考察しています。

なお創造性と不正の関係を調べる実験を行う際に知能の高さも関係があるか調べたところ、創造性と不正には相関関係がありますが、創造性と知能の高さには相関関係が見られなかったそうです。

 

○監視と不正

人は概ね監視されると不正が減るそうです。監視しているものは人でなくとも人のイラスト(目線が向いているものだとなお良い)でも効果があることが実験で示されました。

ただし、グループでの作業の場合、親しいメンバー間での作業、また自分の不正が相手に利益を与える不正を行いやすくなるそうです。

 

○感想

本書で取り上げられているテストやアンケートの結果から、人間は自身も含め適度に不正をする生き物と認識するべきです。特に、自分については不正の可能性を低く見積もりやすいそうです。

その上で不正に対してどう対処するか(ある程度は許容する、できる限り対策する等)を問題ごとに考えるべきなんだと思いました。

 

『不合理だからうまくいく』読書メモ

 こうも蒸し暑い日が続くと会社に行って帰ってくるだけで疲れてしまい、日々だらだらと何も生産せずに終わりそうです。

 そんな自分に活を入れるためにも1ヶ月1本くらい文章を書こうかと思います。習慣化は苦手ですが続くといいな。

 

ダン・アリエリー著『不合理だからうまくいく 「行動経済学で人を動かす」』を読み終えたので忘れないうちに感想です。

副題からわかるように、行動経済学の本です。ちなみに行動経済学とは、人助け、リスクの軽視等、実際の人間は合理的な経済学での仮定の通りには動かない現実を踏まえ、人間がどのように行動するのか観察によって理解しようとする学問です。

簡単に書くと人間が実際はどのような原理で行動し、判断するのかを努める学問であり、知っていると生活の中で判断する際の助けになるように思います。

 

実はダン・アリエリーさんの著書を読むのは2冊目です。以前読んだ『予想通りに不合理』からの次回作なので出版された順に読んでいますが、ノンフィクションかつ難易度はどちらも同じくらいなので内容はどちらから読んでも問題ありません。

 

内容の違いとして、著者は前作は人間がもつバイアスのうち不合理な面を掘り下げたものであるのに対し、

『不合理だからうまくいく』は不合理性を掘り下げて、良い面を広げる内容にしたこと、またこちらの方が取り上げているテーマに、個人的な色合いが強いと、序章で紹介しております。

個人的には前著は交換、売買といった経済的なテーマが多かったのに対し、本作は人の感情のようなより心理的なテーマを多く扱ってるように感じました。

 

●感想というか気になったところ

□無駄作業はやる気をそぐ

上司の指示で資料を作ったけれど、状況が変わりあなたが作った資料は使いません、という経験がある方もいるかと。

実感通りそのような経験は発生する給料に変化がなくとも仕事に対するモチベーションを大きく引き下げます。

逆に仕事に意味を与えるとのモチベーションは高まります。

上のような状況の場合のモチベーションの保ち方がわからないのですが、自分で意味を見つけるなり、修行だと思うしかないのでしょうか。

 

□辛いことは一気に楽しいことは休み休み

夏休みの宿題の片付け方は大きく分けて、1最初に一気に片付ける、2日々コツコツ解く、3最後に急いで終わらすの3種類があるかと思います。

行動経済学の知見を使うと、夏休みの宿題の苦痛が小さいのは1,3のパターンということです。一方的夏休みの楽しみの効能が一番高いのは宿題というインターバルを挟んだ2なので、どのように宿題を片付けようと夏休みは楽しいという結論が出ました。

 

冗談はさておき私は漫画等はよく一気読みをしてしまうのですが、1巻づつ読んだ方が効能が高いので今度試してみようと思います。

 

あとこの考え方を準用すると、買い物は一気に買うよりも少しづつした方が同じ額の買い物によって得られる効能が長続きするとのことです。

高いものを買うと判断基準のアンカーが高いところに位置してしまいすぐにまた別のものが欲しくなリますが、ここは一旦幸福感が消えるまで待ってから買った方が幸福感のコスパが良いそうです。

これは人間死期がわからないので、幸福感のコスパを考えて買い物をした方が、総量が多いとは限らないため行動に移すかは個人次第ですがお金を貯めたいときは使えそうです。

 

□感情によって判断・行動が変わる

結論からかくと、何らかの感情が高ぶっているときは特に重要な決定は下さないほうが良いということです。

理由として、実感に非常に近いですが、例え理不尽に怒られる等不愉快なことがあると、そのことが終わった後も別の決定がその感情に支配されることがあります。感情により普段とは違う行動を起こすことがあるのです。

その決定への影響は一時的なもののように思いますが、「普段と違う行動」という前例を作るということは非常に影響が大きく、この前例が不愉快な感情を忘れた次回以降の決定にも影響を及ぼしかねません。

嵐が過ぎ去るのを待ちましょう。

 

 最後に余談ですが、現在、行動経済学ダニエル・カーネマン著の『ファストアンドスロー』と、アリエリーさん3冊目の『ずる 嘘とごまかしの行動経済学』も少しづつ読んでいます。

なぜこんなに行動経済学の本を読んでいるかという理由として、著者が述べるような知識が判断の助けになるという理由以上に、脳や人間の癖がわかると、行動で失敗したときに、行動経済学の事例に当てはまっていたら「これは人間の癖だから仕方ない、次は気をつけよう」という風に気分を切り替えられるからです。

行動経済学は失敗すると落ち込みがちな人間にはありがたい知識であり、失敗を許せることで挑戦も増えるのではと期待しています。

 

ともあれ行動経済学は面白いぞ!

また次も読んだら感想を書きます。

『予想どおりに不合理』感想その1

 ダン·アリエリー著の『予想どおりに不合理』を読んで思ったことを書きます。

 本書で取り扱っている主題は行動経済学ですが、人間の癖(考え方、行動の癖)とお金についても本書では大きく述べられています。私は特に読んでいて、お金について書かれた部分に興味を持ちました。該当内容を要約すると次のとおりです

 

 モノの価値評価について、新しい製品の価格の決められ方、社会規範と市場規範、無料に弱い人間、価格とプラシーボ効果、電子取引と現金の違い、等等

 複数の面白そうな問題を取り上げているている本書ですが、中でも電子取引と現金の違いについて実体験もあり考えさせられました。

 

 本書で著者は、現金に比べて代用貨幣や電子商取引は不正が起こりやすいと述べています。理由としては2点あり、①特に電子取引の場合物理的なやり取りがないこと、②代用貨幣では現金に比べて良心が働きづらく、不正が可能な状態では衝動的行動をしやすいことを上げています。後者の例を示すと、共有の冷蔵庫にビールがある場合と500円玉がある場合、前者の方が盗まれやすいというものです。

 最後にこれから電子取引がさらに盛んになる中で、どのように不正を抑制していくかが課題であると述べています。

 実感として現金に比べて、クレジットカードの方が衝動的にお金を使いやすいように感じます。(店舗に行きほしいものを持って帰る手間に比べてネット通販のがお手軽というのもある)

 ただ、読んでいて引っかかったのは現金自体も元は金、銀等の代用品であり、価値を持ち出したのはここ数百年の時代からです。

楽観的かもしれませんが当たり前電子取引が当たり前の時代で育った世代になると、現代人には薄い代用貨幣に対する良心も自然と生まれるんじゃないかと思えました。

 ただ、現金と資本主義の発展が同時期なことを考えるとそう簡単にもいかないのでしょうか。

 あと、現金もって駄菓子屋行ったりとか、親からの指摘とか幼児期の価値あるものという刷り込みの、倫理感への影響は大きいかもしれません。

 

 最後ですが興味深い本だったので、また考えがまとまったら何か書きます。なので感想その1。

社会の歯車になりたかったのだが

 最近全く文章を書いていないことに気づき、ブログでもまた書こうかと引っ張り出してきたら4年近くもも前のブログが消されずに残っていた。

 こちらが帰って来たい時に居場所を提供してくれるインターネットの懐の深さをありがたく思うと同時に、中高生の頃に作っていつの間にか書かなくなったブログも生きているのかと思うと頭が痛い。

 

 最近は学生のとき、あれほどなりたかった社会の歯車になっているのだが、勝手なのかなる前の想像力が足りなかったのか、日々辞めたさが押し寄せてくる。

 眠くても寒くても天候が悪くても時間に間に合うように家を出る、満員電車、定時前の机ふき等業務準備、長い8時間、痛くなる腰と肩、悪くなる視力、定時で終らない仕事、定時後の業務依頼、入社する前は断る気だったのに、顔色を見て2回に1回は断りずらい飲み会、読めずに溜まってく本、行き場のないつらさ等等、

 社会の歯車とはこんなに大変だったのかと、毎日駅であれだけの社会人とすれ違いながらいかにその本質を知らなかった、知ろうとしなかったのかと、日々反省と後悔のボタンを連打している。

 

 これだけ文句がとはいえまだやめないのは、転職先が見つからない以外に理由がある。今の仕事でまだやりたい目標に達成していないのと、一人じゃ出来ない事を会社で、それぞれの役割にしたがってやるのはいいなぁと思うのと、最後にこれが一番の理由なのだが、自分で稼いだお金で好きなもの、好きなこと、新しいことをする喜びは大きい。お金は正義だ。ので、無理のない程度にまだ続けたい。

 

 あと今年はもっと本を読んでアウトプットもしていきたい。

話すことによる保存はあるのか

 最近、学校の課題関係で普段会話することのない年代や職種・経験保持者の人と会話をしたり、話を聞くことが多い。思い返せれば小学校のときの校外学習だったり職業紹介ででもそんな経験があった気がするが、その頃はまだその経験の持つ意味を理解するにはあまりにも未熟だったので、適当に暇だなぁと思いながら足元の土をいじったり、友達と喋ったりしていた気がする。今思うともったいないなの一言だが過ぎたものは仕方ない。

 小学校のころと言わず、私は今でも人と喋ることは決して得意とは言えず週に1回は引きこもりたいと思ってしまうことは多々あるし、1時間運動するより、1時間人と会話する方がある意味疲れると思っている人間である。たいへん傲慢ながら本やネットによる文字資料からの知識吸収だけで十分だと思っていた時期さえあった。だけど、それでは足りないのだ。いくら辛くても、会話しなければ、せめて人から話を上手く聞かなければわからないことが多数、世の中にあるのだということを久しぶりに実感した。その反省をこめて今日思ったことを書こうと思う。

 『それでも町は廻っている』という漫画がある。女子高生探偵志望のメイド喫茶?でバイトする女の子、嵐山歩鳥が商店街や学校を中心に過ごす日常を描いた話である。基本1話完結の短編が集まったたいへん面白い漫画なのだが、その中の4巻の最初の2話に歩鳥が友人たちと夏休みにG県(おそらく群馬県)に旅行に行く話がある。少々ネタバレが入ってしまうのだが、歩鳥たちが行く村は過疎がすすんでいる小さな村という設定である。以前この漫画を読んだときはそんな村の設定よりも歩鳥たちの旅行の行方や表情を楽しみながら読んでいた記憶がある。

 そして今日久しぶりに『それ町』の4巻の話を2回目に読んだ。その時なんだか違和感を感じたのだ。これまでほとんど意識していなかった村の様子の描写がひっかかる。なぜこんなにひっかかるのだろうと思い、考えてみた結果思い当ったのが、群馬県に旅行に行ったことである。やけに村や村の住民の様子が旅行先、群馬県の赤岩の様子にかぶって村の人に共感がすすむのである。もちろん最初に漫画を読んだ時も過疎集落のことは知識として知っていたし、群馬県の他の村にも温泉目当てに何度か行ったことがあったのでなぜ、2回目だけこの共感が起こったのかしばらく考えてみた。

 その結果、この群馬県旅行の他の旅行との相違点は現地の人からお話を聞いたことである。お話と言っても過疎の行き先を心配する悲惨な話よりも、養蚕の歴史だとか村での生活の歴史を滔々と語ってくれた。こちらも感情移入というよりはそういうものもあるのかというようなさっぱりした受け止め方をしたのだが、それでも、この話を聞くという経験は知識以上のものを受け手にあたえるのだと思う。これまで先生方が口を酸っぱくして言ってきた、実物をみないと分からないよという言葉や、最近も流行っている聖地巡礼も、舞台に入り込みたいという気分以外に、経験しないと手に入れられない感覚をもとめるからなのかもしれない。そして実際に行ったからには、飲食のおばちゃんとでも誰か現地の人と会話をした方が良いのだ。もちろん良い話を聞くためには、事前にある程度の準備やうまく聞く技術も必要だから一筋縄ではいかないのだが。

 私の文章力のなさなのか、表現媒体に文字を使っているからなのかあまり、文字では伝わらない感覚が伝わっていないので、また気が向いたら書き直すのだが、最後に1つ今回旅行に行った村の紹介をして終わろうと思う。

今回の旅行先は群馬県吾妻郡中之条町にある赤岩という集落である。昔は養蚕集落だったようで、今も蚕のために2階も広くとった家の形にその名残が残っている。重伝建自体圧倒的に知名度が低い気もするのだが、重伝建地区にも指定されている。電車だと長野原草津口からタクシーで20分程度のところにある盆地である。徒歩だと1時間強?村のメインストリートは歩いて10分くらいで端から端まで行ける広さである。詳しくはウィキペディアに書いてある

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B2%A9_%28%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%29

赤岩に行った感想としては、過疎集落と聞いただけで絶望的な印象を抱いてしまう先入観にとらわれるべきではなく、ここは緑は綺麗で村の人たちも元気でこじんまりとした良いところだなあという月並みな印象だった。村から少し離れたところに川も流れており、旅館はないけれど村の様子が『それ町』のといくつかかぶるところもあるので、気になるひとはぜひ行ってみてください。

 

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重伝建地区:赤岩の写真

土地の話

ゲニウス・ロキ」という言葉がある。なんだかおどろおどろしい印象を受けるがどこか魅力的でもある。この言葉イギリスで18世紀ごろに注目されだした概念で、もとはラテン語。「ゲニウス」は物事に付随する守護の霊「ロキ」には場所・土地という意味がある。つまり「ゲニウス・ロキ」とは土地から引き出される霊感とか土地に結び付いた連想、あるいは土地がもつ可能性といった概念になるそうだ。日本語にすると地霊という言葉が近いらしいがそう言い切ってしまうとなんだか土地を擬人化して、多くの意味が漏れ出してしまう気がするので、ここでは長いけれど「ゲニウス・ロキ」を使い続けようと思う。

 鈴木博之著の『東京の[地霊]』を読んだ。東京という都市の変遷を土地の移り変わりから読み解いている良著であり、浅学な私にとって知らない昔の歴史は知っている土地をより奥深く見させてくれるものであるなあと感心しながら読んでいた。

 現在東京、といえば23区をさすことがそこそこある。この本でも扱っているのは東京23区の地域だけである。それだけ人や建物の動きが激しくいろいろな物語が消えては生まれて見えて面白い、興味の対象になりやすいのだろう。土地に建物や歴史を勝手につくるのも、歴史を読み解くのも人の仕業であるのだから、勿論歴史は人がつくるものといった解釈は決して間違っていないのだ。しかし私は土地や人間が造った建物からも人の想像を超えた力があるのではと思ってしまう。都市の面白さは人、そしてそのつながりが生み出す物事に起因する部分も多いが、それ以外の建物や土地・地形が生み出す部分もあると考える。東京はおそらく前者の部分が、そして京都ふくむ観光都市はいささか後者が強調されすぎているきらいが無きにしも非ずである。

人が一か所に集中するきらいがあるのは仕方ないことかもしれないが、東京でも文化財だって多くあるのだし建物や土地の歴史に目を向けてみたほうがよいのではないかとも思う。