二畳半生活

ぼんやりとした概念を具体化する作業途中です

社会の歯車になりたかったのだが

 最近全く文章を書いていないことに気づき、ブログでもまた書こうかと引っ張り出してきたら4年近くもも前のブログが消されずに残っていた。

 こちらが帰って来たい時に居場所を提供してくれるインターネットの懐の深さをありがたく思うと同時に、中高生の頃に作っていつの間にか書かなくなったブログも生きているのかと思うと頭が痛い。

 

 最近は学生のとき、あれほどなりたかった社会の歯車になっているのだが、勝手なのかなる前の想像力が足りなかったのか、日々辞めたさが押し寄せてくる。

 眠くても寒くても天候が悪くても時間に間に合うように家を出る、満員電車、定時前の机ふき等業務準備、長い8時間、痛くなる腰と肩、悪くなる視力、定時で終らない仕事、定時後の業務依頼、入社する前は断る気だったのに、顔色を見て2回に1回は断りずらい飲み会、読めずに溜まってく本、行き場のないつらさ等等、

 社会の歯車とはこんなに大変だったのかと、毎日駅であれだけの社会人とすれ違いながらいかにその本質を知らなかった、知ろうとしなかったのかと、日々反省と後悔のボタンを連打している。

 

 これだけ文句がとはいえまだやめないのは、転職先が見つからない以外に理由がある。今の仕事でまだやりたい目標に達成していないのと、一人じゃ出来ない事を会社で、それぞれの役割にしたがってやるのはいいなぁと思うのと、最後にこれが一番の理由なのだが、自分で稼いだお金で好きなもの、好きなこと、新しいことをする喜びは大きい。お金は正義だ。ので、無理のない程度にまだ続けたい。

 

 あと今年はもっと本を読んでアウトプットもしていきたい。

話すことによる保存はあるのか

 最近、学校の課題関係で普段会話することのない年代や職種・経験保持者の人と会話をしたり、話を聞くことが多い。思い返せれば小学校のときの校外学習だったり職業紹介ででもそんな経験があった気がするが、その頃はまだその経験の持つ意味を理解するにはあまりにも未熟だったので、適当に暇だなぁと思いながら足元の土をいじったり、友達と喋ったりしていた気がする。今思うともったいないなの一言だが過ぎたものは仕方ない。

 小学校のころと言わず、私は今でも人と喋ることは決して得意とは言えず週に1回は引きこもりたいと思ってしまうことは多々あるし、1時間運動するより、1時間人と会話する方がある意味疲れると思っている人間である。たいへん傲慢ながら本やネットによる文字資料からの知識吸収だけで十分だと思っていた時期さえあった。だけど、それでは足りないのだ。いくら辛くても、会話しなければ、せめて人から話を上手く聞かなければわからないことが多数、世の中にあるのだということを久しぶりに実感した。その反省をこめて今日思ったことを書こうと思う。

 『それでも町は廻っている』という漫画がある。女子高生探偵志望のメイド喫茶?でバイトする女の子、嵐山歩鳥が商店街や学校を中心に過ごす日常を描いた話である。基本1話完結の短編が集まったたいへん面白い漫画なのだが、その中の4巻の最初の2話に歩鳥が友人たちと夏休みにG県(おそらく群馬県)に旅行に行く話がある。少々ネタバレが入ってしまうのだが、歩鳥たちが行く村は過疎がすすんでいる小さな村という設定である。以前この漫画を読んだときはそんな村の設定よりも歩鳥たちの旅行の行方や表情を楽しみながら読んでいた記憶がある。

 そして今日久しぶりに『それ町』の4巻の話を2回目に読んだ。その時なんだか違和感を感じたのだ。これまでほとんど意識していなかった村の様子の描写がひっかかる。なぜこんなにひっかかるのだろうと思い、考えてみた結果思い当ったのが、群馬県に旅行に行ったことである。やけに村や村の住民の様子が旅行先、群馬県の赤岩の様子にかぶって村の人に共感がすすむのである。もちろん最初に漫画を読んだ時も過疎集落のことは知識として知っていたし、群馬県の他の村にも温泉目当てに何度か行ったことがあったのでなぜ、2回目だけこの共感が起こったのかしばらく考えてみた。

 その結果、この群馬県旅行の他の旅行との相違点は現地の人からお話を聞いたことである。お話と言っても過疎の行き先を心配する悲惨な話よりも、養蚕の歴史だとか村での生活の歴史を滔々と語ってくれた。こちらも感情移入というよりはそういうものもあるのかというようなさっぱりした受け止め方をしたのだが、それでも、この話を聞くという経験は知識以上のものを受け手にあたえるのだと思う。これまで先生方が口を酸っぱくして言ってきた、実物をみないと分からないよという言葉や、最近も流行っている聖地巡礼も、舞台に入り込みたいという気分以外に、経験しないと手に入れられない感覚をもとめるからなのかもしれない。そして実際に行ったからには、飲食のおばちゃんとでも誰か現地の人と会話をした方が良いのだ。もちろん良い話を聞くためには、事前にある程度の準備やうまく聞く技術も必要だから一筋縄ではいかないのだが。

 私の文章力のなさなのか、表現媒体に文字を使っているからなのかあまり、文字では伝わらない感覚が伝わっていないので、また気が向いたら書き直すのだが、最後に1つ今回旅行に行った村の紹介をして終わろうと思う。

今回の旅行先は群馬県吾妻郡中之条町にある赤岩という集落である。昔は養蚕集落だったようで、今も蚕のために2階も広くとった家の形にその名残が残っている。重伝建自体圧倒的に知名度が低い気もするのだが、重伝建地区にも指定されている。電車だと長野原草津口からタクシーで20分程度のところにある盆地である。徒歩だと1時間強?村のメインストリートは歩いて10分くらいで端から端まで行ける広さである。詳しくはウィキペディアに書いてある

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%B2%A9_%28%E7%BE%A4%E9%A6%AC%E7%9C%8C%29

赤岩に行った感想としては、過疎集落と聞いただけで絶望的な印象を抱いてしまう先入観にとらわれるべきではなく、ここは緑は綺麗で村の人たちも元気でこじんまりとした良いところだなあという月並みな印象だった。村から少し離れたところに川も流れており、旅館はないけれど村の様子が『それ町』のといくつかかぶるところもあるので、気になるひとはぜひ行ってみてください。

 

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重伝建地区:赤岩の写真

土地の話

ゲニウス・ロキ」という言葉がある。なんだかおどろおどろしい印象を受けるがどこか魅力的でもある。この言葉イギリスで18世紀ごろに注目されだした概念で、もとはラテン語。「ゲニウス」は物事に付随する守護の霊「ロキ」には場所・土地という意味がある。つまり「ゲニウス・ロキ」とは土地から引き出される霊感とか土地に結び付いた連想、あるいは土地がもつ可能性といった概念になるそうだ。日本語にすると地霊という言葉が近いらしいがそう言い切ってしまうとなんだか土地を擬人化して、多くの意味が漏れ出してしまう気がするので、ここでは長いけれど「ゲニウス・ロキ」を使い続けようと思う。

 鈴木博之著の『東京の[地霊]』を読んだ。東京という都市の変遷を土地の移り変わりから読み解いている良著であり、浅学な私にとって知らない昔の歴史は知っている土地をより奥深く見させてくれるものであるなあと感心しながら読んでいた。

 現在東京、といえば23区をさすことがそこそこある。この本でも扱っているのは東京23区の地域だけである。それだけ人や建物の動きが激しくいろいろな物語が消えては生まれて見えて面白い、興味の対象になりやすいのだろう。土地に建物や歴史を勝手につくるのも、歴史を読み解くのも人の仕業であるのだから、勿論歴史は人がつくるものといった解釈は決して間違っていないのだ。しかし私は土地や人間が造った建物からも人の想像を超えた力があるのではと思ってしまう。都市の面白さは人、そしてそのつながりが生み出す物事に起因する部分も多いが、それ以外の建物や土地・地形が生み出す部分もあると考える。東京はおそらく前者の部分が、そして京都ふくむ観光都市はいささか後者が強調されすぎているきらいが無きにしも非ずである。

人が一か所に集中するきらいがあるのは仕方ないことかもしれないが、東京でも文化財だって多くあるのだし建物や土地の歴史に目を向けてみたほうがよいのではないかとも思う。

写真の話

 東京国立近代美術館で開催されているジョセフ・クーデルカ展に行ってきた。久しぶりの展覧会は思った以上に面白いものが見られてよかった。個人的にはエグザイルズという題目で飾られていた写真がどこにもいけない雰囲気のようなものをはらんでいて、なんだかすとんと身におちた。写真は現実を映す機械であると同時に使い手にとってはそれ以上の意味をもつ道具になるのだと月並みなことを考えながら岐路に着いた。

 それと同時にもう1つ写真についての思い出を。これまで白黒写真はカラー写真に比べ情報量が少ないものと思っていたのだが、先日如庵の白黒写真を見た。偏見だが茶道界に持っているお金持ちの高貴な趣味といった雰囲気はあまり漂ってこずに、なんだか自分の身にとどめておきたい寂しさのようなものがそこに漂っている気がして、ストイックなこじんまりとした印象よいなぁと思ってしまった。その後さらに興味が湧き、如庵についてグーグル先生に教えを乞うたところ、クリーム色の壁のかわいらしい茶室がでてきた。白黒写真から彷彿とさせるようなストイックさは消失してしまっていた。もともと如庵は織田有楽が晩年隠居の際に作った茶室と言われている。彼自身戦国の世を70年以上生きた傑物であるのだから茶室にストイックさを求めたわけではないかもしれない。またはのちの時代を経る中で壁の色が変化して今のような温たかい茶室になったのかもしれない。まあそれはおいておいて、あの物寂しい壁の色は白黒写真の中にしか残っていないのだ。